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■EIKODO(岐阜県各務原市)

永田 皐月1

「マツヤ印判」の項でちょっとだけ顔を出したバカ息子は、
昭和55年の1月から、山川太嗣先輩の後釜として長澤印店に就職しました。

長澤印店は新橋から虎ノ門へと伸びる外堀通りに面しています。
その長澤印店から200mほど新橋寄りの内堀通りとの交差点付近に
実はもう1軒、印鑑店があります。

その名を「三田印房」
当時既に印鑑業界の大看板にして重鎮であった三田秀泉師が経営する、
こちらも長澤印店に負けず劣らずの名店です。

バカ息子は今日もカーリーヘアにレイバンの度付きサングラス、
紺のスリーピースのスーツという、今思い出すだに恥ずかしい格好で
颯爽と肩で風を切って営業に出ていきます。

三田印房の前を通りかかると、ラフな普段着に銀縁メガネ、
長髪にまるでスカンクのような、

(もっとわかりやすく言うとドゥービーブラザースバンドにいた
ジェフ・バクスターのような…ちっともわかりやすくないか)

立派なというか、だらしないというか、まあそんな髭を蓄えた、
バカ息子と同年代と思われる若い男が、精気のない顔で
ちょうど店から出てくるところでした。

「なんだ、見習いの職人さんか」と一瞥をくれたバカ息子ですが、
そのスカンク髭の男がその後、彼の生涯にわたっての盟友となろうとは、
神ならぬ身の知る由もありません。


というわけで、今回はその盟友・永田 俊行(号:皐月)氏をご紹介。

岐阜県岐阜市に生まれた永田氏は、高校を卒業後
前述の東京・虎ノ門「三田印房」に印鑑彫刻職人見習いとして就職します。

三田印房は広く日本全国から印鑑店の子弟を
彫刻職人見習いとして採用しており、
永田氏の他にも優秀な印鑑彫刻技術者を多く輩出しています。

仕事はもちろん彫刻以外にも接客や配達、外注先へのお遣いがありますが、
スーツを着用して営業に飛び歩くということはなく、
基本的には店で実戦を兼ねた彫刻技術習得が主な修業目的です。

(それとは対照的に長澤印店は印鑑店の子弟を採用しても
仕事は営業や接客がすべてであり、店で彫刻技術を学ぶことはありませんでした。)

岐阜から出てきた永田氏は三田印房ビルの4階にある一部屋に住み込み、
江戸っ子過ぎる怖い先輩と2段ベッドで寝る生活です。
住み込みですからもちろん3食付きですが、当初の給料は5千円!
これはもはや小遣いであり、給料とは呼べません。

「いくら住み込みでも銭湯へ通ったりしたから
とても5千円で足りるはずがなく、親からこっそり仕送りしてもらってた。
でも今思うと、東京での生活に浮かれることなく、印鑑彫刻技術の習得に
専念しろという親御心が三田先生におありになったのだと思う」と
永田氏は当時を振り返ってこう語ります。

(ちなみに長澤印店は、少なくともバカ息子の時代には、
印鑑店子弟の修業とはいえ初任給は10万円でした、これがいけなかったか?)

店での修業にとどまらず、月2回の日曜日には神保町の印章会館で行われる
東京印章協同組合技術講習会に通い、彫刻技術を貪欲に吸収していきます。

(ちなみに、そのころ既に印鑑職人の道を諦め、長澤印店からもらう給料の
すべてを楽器購入につぎ込んでいたバカ息子は、当時技術講習会講師だった父親から
「三田印房で修業している岐阜の永田という生徒は実に熱心だ。
筋もいいし、彼は先々きっと伸びるだろう」と聞かされても
フフンと鼻で笑ってギターをかき鳴らしていました。ああ恥ずかしや情けなや)

永田氏は4年の修業の間に業界団体主催の技術競技会に精力的に出品を続け、
主な賞を総ナメにしていきます。

そして4年後の修業満了を待って故郷・岐阜に戻った彼は、
厳父が経営する「永光堂印章」を共に切り盛りしつつ、
書家・伊藤天游に師事して書と篆刻を徹底的に学びます。

その6年後、熱烈なる恋愛を実らせて結婚することが決まった永田氏は
婚約者を師匠・三田秀泉に紹介する(という名目の)ために久々に上京します。

そして秀泉師から
「今日はわざわざ遠くからありがとう。きれいな奥さんだね。
ところでこれから予定あるか? 特になければ錦糸町で業界関係の展示会が
あるから2人で行ってみないか? 奥さんにもいい勉強になるだろう。
夜は隅田川の花火も見られるし、どうだい?」と言われ、
夜(♪)までの時間つぶしのつもりの軽い気持ちで錦糸町の展示会場へ。

そして会場内のとあるブースで技術講習会の元講師から声をかけられ、
そのバカ息子と運命の出会いをすることになります。(大げさ)

まあそれはともかく、結婚を機に永田氏は自店の営業方針を転換し、
即納態勢強化と徹底した広告戦略で大きな成果を上げていきます。

しかしその一方で彼の心中には
「じっくりと時間をかけてよりよい印鑑を彫りたい」という欲求が強くなり、
それは時としてマグマのように彼自身を突き上げるようになりました。

やがてついに永田氏は長く親しんだ岐阜市内の店を閉めるという決断を下します。
そして隣の各務原市に建築した自宅の前面を店舗に充て、
店名もEIKODOに改めて心機一転、
自らが納得する印鑑を腰を落ち着けて彫刻する日々を過ごしています、

彼独特の繊細で柔和な作風をよりいっそう研ぎ澄ませつつ。

永田 皐月2

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■マツヤ印判(京都市中京区)

山川太嗣・彫刻中

私をこの道に引きずり込んだ、
もとい、私が真人間に戻るラストチャンスを
結果的に与えてくださることになった先輩をご紹介。

生まれも育ちも洛内という生粋の京都っ子である山川太嗣(ふとし)氏は、
京都の大学を卒業後、ある業界人の紹介で、
当時名店の名を欲しいままにしていた、
東京・虎ノ門「長澤印店」へ修業のため就職しました。

初出勤の朝、地下鉄虎ノ門駅出口の階段を駆け上がると、
ちょうどそこには、店の前を掃き掃除していた長澤頼宏社長が。

急いで店に入ろうと「おはようございます」と軽く会釈して
通り過ぎようとすると、その背後から

「ちょっと待て!」と鋭い声が突き刺さりました。(怖)

恐る恐る振り返ると、口を真一文字に結んだ厳しい表情の社長。

社長「なんだ今のあいさつは!」

山川「・・・申しわけございません」

社長「正しいあいさつというのはだな、まずちゃんと相手の目を見て
    あいさつの言葉を述べて、それから上半身を…(後略)」

長澤印店は虎ノ門交差点のすぐ近く(新橋寄り)にあります。
交差点を渡った先にある霞ヶ関の官庁街へ出勤する多くの人たちが
「この人朝から何を怒られているのだろう?」と横目でチラリと見ては、
足早に通りすぎて行きます。

こうして初出勤の、しかも店に入る前から厳しい洗礼を浴びた山川氏、
挙句の果てに社長から
「わかったか! わかったら、下の改札を出たところからやり直し!」と言われ、
再度階段を上がって掃除中の社長に「おはようございます」と最敬礼。

すると今度は「上半身の角度が浅い、やり直し!」

次は「お辞儀の静止時間が短い、もう1回!」

結局社長から「それでいいだろう」のお言葉を頂戴したのは、
山川氏が虎ノ門駅の出口階段を5回目に上ったときでした。

この間時間にして約10分くらいでしたが
「1時間にも2時間にも感じられるほど長かった。
あの朝の出来事でそれまでの学生気分が完全に吹き飛んだ」と、
後に山川氏は述懐しています。

しかし、礼儀作法や行儀には口やかましい長澤社長でしたが、
その実とても温かみのある、包容力溢れる懐の深い方で、

「どうせ朝飯なんか食ってこなかったんだろう、ここへ来て座れ」と
店の2回の自宅居間に通されて、社長得意のフレンチトースト(!)を
緊張しながらごちそうになったことも何度かありました。

ところがそれから3ヶ月後、
山川氏が長澤印店のしきたりにようやく慣れてきたころ、
長澤頼宏社長は急病により、あっけなくこの世を去ります。

山川氏が受けた衝撃はこれまでにないほど大きく、
「お亡くなりになった以上、社長から学ぶこともできない。
たった3ヶ月の修業だったけれど、京都に帰るしかないか」と
思ったりもしましたが、事はそう簡単には行きません。

なにしろ絶対的な存在であったワンマン社長の急逝で店の中は大パニック。
社長の忠実な家臣だった古参従業員たちは、ただもう右往左往するだけ。
…これ以上詳しくは書けませんが、外部からの介入もあったりでもう大変。
その後およそ2年間の混乱期間を経て、なんとか店も再度軌道に乗り、
気がつくと山川氏は古参社員からすっかり頼られる存在になっていました。

店の混乱を収束せしめるのに尽力する一方で、
山川氏は、当時既に伝説の名印鑑職人だった山本石洲翁に師事すると同時に
東印技術講習会にも熱心に通い、印鑑彫刻技術を着実に身につけていきます。

しかし仕事のプレッシャーと寸暇を惜しんでの彫刻技術習得による疲労が重なり、
修業満了を目前に控えたある日、とうとう山川氏は急性肝炎に倒れます。
以前から「しんどい」と口癖のように話していた彼ですが、
自分に代わる者がいない現状では休むこともままならず、
ギリギリまで我慢に我慢を重ねてしまいます。

もうだめだと這うように通院した病院で、いきなり医師に
「目に黄疸が出てるぞ、なぜこんな状態になるまで放っておいたんだ」と怒られ、
即刻ドクターストップ、その日のうちに新幹線で京都へ帰って直行で入院。

…しかしこれで困ったのは長澤印店でした。
いまや大黒柱となっていた大きな戦力を失い、古参従業員たちは困ります。
そこで、折りしもその時ほとんどプータロー状態で遊び呆けていた、
ある下請け彫刻職人のバカ息子に白羽の矢が立ったのでした、チャンチャン。

まあそんなバカ息子のことは放っといて、話を山川氏のその後に戻しましょう。
半年に及ぶほとんど面会謝絶状態の入院生活で幸いにも病気が完治すると、
彼は義理堅くも上京して長澤印店に復帰、残り3ヶ月の修業期間を満了させます。

その上で山川氏は再度京都に戻って実家のマツヤ印判に入ります。
たった3ヶ月でしたが、亡き社長から学んだ「印章道」と、
山本石洲翁の元で身につけた「印鑑彫刻技術」と、
何よりも、混乱を乗り越えて長澤印店を切り盛りしてきたという「自信」で、
その後長きに渡ってご尊父と二人三脚、
マツヤ印判を京都屈指の名店に育てていきます。

スポーツ好きだった亡き父・山川宏造氏の影響で
スキー、テニスとスポーツ万能で行動的な山川氏は
今日も昼間はバイクで京都市内一円の顧客網をくまなく回り、
夜は己の彫刻技術に更なる磨きをかけています。

山川太嗣・接客中

京都市中京区の印鑑・はんこ屋【マツヤ印判】Webサイトはコチラ

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■述章堂(群馬県高崎市)

上原高洞・彫刻中

世界を股に賭ける(古い表現で恐縮)ストリート篆刻パフォーマー、
上原 高洞(本名:隆)氏。

大学を卒業後、かの書家・大久保 翠洞師(茨城・古河市)の内弟子となった彼は
毎朝6時から深夜2時までに及ぶ激烈な修業に耐えること3年、
当初は6年間の修業の予定でしたが、
ご尊父の急逝により実家の述章堂(群馬・高崎市)の四代目店主となります。

店の経営にあたりつつも書と篆刻に更なる研鑽を積み、
謹慎展をはじめとする国内の主な篆刻関連展覧会に入賞を果たします。

1999年にはニューヨーク街頭で路上篆刻パフォーマンスに挑戦、
「印」の文化のない当地の人々から絶賛の嵐を浴びます。

その後もオーストラリアやイタリアなど世界各地でストリート篆刻を展開、
地元メディアにも大きく取り上げられるなど、その活動はワールドワイドです。

上原高洞・ストリート篆刻ライヴ

そんな上原氏に初めてお目にかかったのはもう10年も前のこと、
その話題の豊富さと話術の巧みさに、ただただ驚くだけの私。
「世の中にはこんなハンコ屋さんもいるんだ~!」と感心するばかりでした。

技術を持たない私がこんなこと言うのは僭越すぎるくらい僭越ですが、
それを承知で敢えて暴言を吐いちゃうとね、

ごく一般論ですが、多くの印鑑職人さんは、
その技術が世間一般にはなかなか正当な評価が得られないこともあって、
そのスタンスはどちらかというと「内向き=業界内の評価を気にする」傾向です。
…あくまで一般論ですよ、もちろんそうでない方もいらっしゃいます。

一方、篆刻の世界の住人、特に印刻から篆刻界へと移住した人の中には
芸術性の多寡を以って、かつての住処だった印刻界を見下す人も見受けられます。
しかしその実、この上ない堅固な△ヒエラルキー社会の一員として、
師匠が遠隔地で個展を開くとなれば、肝心の自分の店(印鑑屋)は奥さんに任せて
師匠に同道して細々とその世話を焼いたりしています。
(それ自体を批判する意図はございませんのであしからず)

ところが上原氏はそのどちらにも属さない。

内向きどころか、
世界の街角でハンコを彫るという超・外向きな業界人は彼以外に知らないし、
篆刻家を自認しつつも、柘の認印でも喜んで彫る印刻家でもあります。

さらには現在の篆刻界の△ヒエラルキーには属さず(後ろ盾を持たずということ)、
誰にも頼らず、あくまでも単身、孤高を貫いています。

それは傍で見ていても、実に男らしく痛快な生き様といえます。


しかしそんな上原 高洞氏には数多くの逸話が。

■極真空手世界大会に出場、3回戦であの熊殺し・ウィリー・ウィリアムスと対戦、
 最初の一撃で3メートル吹き飛ばされた。

■ニューヨークの有名ジャズクラブ、ブルーノートでロン・カーターのライヴを観て
 終演後にひとりステージに上がって3コードのブルースピアノを弾いていると
 ロン・カーターや他のメンバーが出てきて一緒にジャム・セッションした。

■若いころスキーに凝り、ひと冬店を閉めてスキー場に寝泊りして
 スキー指導員の資格を取った。

■車は国際A級ライセンスを持っていて、マカオラリーにも出場できる。
 去年はお美しい奥方様を伴ってイタリア全土をレンタカー借りて縦断した。

…って、マジかよ!?
中には最初聞いたのと2回目に聞いたのではディテールが食い違う話もあり(笑)、
正直なところ、どこまで本当の話かという疑問も沸かないではありませんが、
まあ、酒の上の他愛ない話なら、楽しい分には構わないやね。

なんたってご本人がこうおっしゃってますから。

「オレは、高崎の洞(法螺)吹き、だから高洞だ!!」

述章堂・親切丁寧にご案内します

高崎市の印鑑・はんこ屋【述章堂】Webサイトはコチラ

高崎の印鑑・はんこ作家【上原 高洞】彫刻動画付Webサイトはコチラ

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■岡本印房(東京都新宿区)

岡本印房・彫刻中

印鑑を彫るために生まれてきた男(と言ったら本人は怒るでしょうが)、
岡本尚也(号:尚山)氏。

6歳年下の彼と初めて会ったのは、彼がまだこの業界に入って間もない20歳のころ。
その印象はただ一言「鼻っ柱が強くて生意気なやつだ!」
(他人様のことは言えないって…苦笑)

聞けば医学の道を志すも、大学受験に2度失敗して断念したとこのこと。
そこで失われた2年間を取り戻すべく、
はんこ職人の道を猛スピードで突き進むことを誓った彼は、
その言葉通り、厳しい修業の末、
常人なら習得に10年はかかると言われる印鑑彫刻技術を
たったの4年で完璧に自分のものにします。

さらに驚くべきことに、印鑑業界最高峰の技術コンクールのひとつ、
第9回全国印章技術大競技会・角印の部に
ほんの腕試しのつもりで出品した作品が、
特別賞の労働大臣賞に輝くという離れ業をやってのけました。

okan-jusho.gif

このとき岡本氏は弱冠24歳。
この最年少受賞記録は現在まで破られていません。

そしてこの年に修業期間満了となり、独立を果たすものの
当時の資金はたったの2万円!
当然店など持てるはずもなく、安いスーツと営業用カバンに消えました。

翌日からカバンひとつでの飛込み営業が始まるのですが、
なんと初日からガンガン受注してしまうのです。
「当時はバブルで景気がよかったからですよ」と笑う岡本氏ですが、
いくら儲かって景気のいい会社でも、
いきなり飛び込んできた若造(失礼)にそうやすやすと
会社の大事な印鑑類を発注するとは考えられません。

この若者は「労働大臣賞受賞」という厳然たる事実を背景に、
自身の作品印影を見せながら
印鑑の大切さをとくとくと説いたものと思われます。

そうした努力の甲斐あって2年後の平成6年には
現在の新宿・曙橋に「本格印章専門店 岡本印房」をオープンさせます。

当時はフジテレビ本社が曙橋(河田町)にあったため、
岡本氏の仕事に惚れ込んだ芸能界関係者が
高額な印鑑を注文することも珍しくありませんでしたが、
平成9年のフジテレビ台場移転後は街の活気も失われていきます。

岡本印房も例外とは言えず、
売上げの柱であった高額品の販売機会が徐々に減っていき、
今まで順調に推移していた店の売上げにも黄信号が灯り始めました。

そんな時期、気分転換の意味もあって
岡本氏は週末になると愛車のキャンピングカーでロングドライブにでかけます。
もともとアウトドアライフが好きだった彼ですが、
都会の喧騒を離れ、山々に囲まれ、新鮮な空気を満喫しているうちに、
周囲の自然が彼にあるヒントを投げかけてくれました。

遠くに広がる山々のなだらかな稜線、
木々や草花のたおやなかな佇まい、
そこにはなんとも言えない、絶妙な「ライン」が息づいています。

それら自然造形物の「ライン」の美しさを印鑑に反映できないだろうか?
まさに自己と自然と作品との調和。

そこから、岡本尚山氏の作品は一変します。

それまではともすると、「労働大臣賞」の看板を背負うプレッシャーからか,
失礼ながら作品に多少の強引さや気負いを感じることもありましたが、
自然の造形美に感嘆し、それを素直に採り入れるべく自然体で取り組んだ結果、
最近の彼の作品は、すっかり練れてきたその人柄のように、
凛とした清々しさの中にもやさしさにあふれています。


若くして大きな賞を取り、やれ天才だ、数十年に一人の逸材だともてはやされると、
多くの場合、その時点で謙虚さを失って成長も止まってしまうものです。
岡本氏も確かに一時その迷宮に迷い込んだこともありました。

しかし、自身が愛してやまない「自然」からの恩恵と、
それ以上に、固い絆で結ばれたパートナー(奥様)のサポートを得て、
この若き印鑑業界の至宝は今、かつてない輝きを放っています。

岡本印房・スタッフ

印鑑は新宿区のはんこ屋【岡本印房】Webページはこちら

新宿区の印鑑・はんこ職人【岡本尚山】彫刻動画付Webページはこちら

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■辻村(静岡県沼津市)

辻村浜夫さん・彫刻中

西麻布の師匠、蒲田の御大と並んで、
私が尊敬する数少ない業界の先輩、辻村 浜夫さん。

沼津から上京して
印刻界の巨匠・小川瑞雲師(東京・両国)の内弟子となった辻村さんは
印鑑彫刻の面白さ・奥深さにグイグイと引き込まれていきます。

休日も各地の展覧会を観て回って審美眼を高めたり、
またあるときは鎌倉の鶴岡八幡宮などの神社仏閣を訪れて、
本堂などの建造物の屋根の微妙な勾配をじっくりと観察し、
自らが彫刻する文字のカーブに取り入れるなど、
印鑑彫刻職人の道をまっしぐらに突き進んでいきました。

辻村浜夫さん・代表作

しかし、東京での修業期間を満了して沼津の実家に戻った辻村さんを
待っていたのは、ご尊父が経営する印鑑店の次期店主の座ではなく、
道半ばにして急逝なさったお兄様の後を継いで、
フレキソ製版・スクリーン印刷事業部門の責任者になるという、
まさに青天の霹靂たる緊急事態でした。

それまで印鑑一筋の辻村さんは、製版・印刷のことなどほとんど知りません。
しかし持ち前のバイタリティーで
多岐にわたるノウハウを驚くべき短期間で自家薬籠中のものとした彼は、
製版・印刷部門を継続的に成長させることに成功します。

ところが、今から15年ほど前から始まった発注元大企業工場の海外移転に伴い
受注量も次第に減少し、やがて窮地に立たされます。

しかしその試練も、辻村さんは更なる技術革新と環境への配慮という
時代のニーズに合った戦略を駆使して乗り切っていきます。

そして製版・印刷部門の経営も一息ついた今、
辻村さんの熱い視線は再び「印鑑彫刻」に向けられています。

辻村・店舗外観

店内には、1本の印鑑が出来上がるまでの工程が細分化して陳列され、
多くの来店客の目を釘付けにしています。

また「印鑑は大事なものだから、時間のあるときにゆっくり選んで欲しい」と、
土日も休まずに営業しています。
もちろん、従業員さんにはしっかり休んでもらい、
土日は辻村さんと奥様が交代で店に出ています。

幾多の困難や障壁に何度も行く手を遮られながらも、
そのたびに新たな手段や戦略を駆使して乗り越え、
それにつれて、より一段とタフになっていくその精神力は、
後に続く者にとって、この上ないお手本であり、励みでもあります。

「辻村さんがあんなにがんばっていらっしゃるのだから」と、
ともすると萎えがちな我が身と心に鞭打つ後進は業界内にも数多くいるはずです。

こんなパワフルな方が丹精こめて彫刻する印鑑は、
持つ人をいつまでも勇気づけ、励まし続けることでしょう。

これ書くと私が誰だかバレてしまうかもしれませんが、
もう18年も前に(恐る恐る)つけたペンネーム?だから、
ご本人もすっかりお忘れでしょう。(と信じて)

ボンバー(またの名を“スーパー・ロングトーカー”)辻村、万歳!

沼津市の印鑑・はんこ屋【辻村】Webページはコチラ

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プロフィール

Author:ガンコならぬハンコ親父
印鑑はできれば当店でご注文いただきたいところですが(笑)、
全国には素晴らしい印鑑屋さんが数多くあります。
それらのお店を厳選して勝手にお薦めするこのブログ、
印鑑屋選びにお悩み方のお役に立てれば、これ幸いに存じます。
店名は敬称略で失礼しますよん。

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